神経症を治すために 耐える必死さと克服する必死さの違い
神経症などの心の問題を解決するためには、何もしないことでは一生ずるずると悩み続けてしまいます。
かといって、それがいやでみんな努力したり、歯を食いしばって耐えたり、前精神力を総動員して、神経症克服を成し遂げようとがんばっています。
でも、僕もそうだったですが、なぜ努力の分だけ結果が出ないのでしょうか?
そして、努力の分だけ、焦りを呼び込み、余計ヘトヘトになって、何のために生きているのかわからなくなる悲劇は、おそらくみんな経験していると思います。
必死でやれば、心も問題は解決する、と普通の人は簡単に言うと思います(親とか友人とか)
根性があれば何でも可能だと言われます。
しかし、心の問題の袋小路に入ったことがない人が、いくらそうアドバイスしても、「あなたの今までの人生で注入した精神的なエネルギーなんて、俺に比べたら、ほんとちっぽけなものですよ」と言いたくなりました。
それぐらい、僕を含めて、神経症の人は、どれだけエネルギーを解決するために注ぎ込んできたでしょうか?
それに比べたら、普通の人のアドバイスなんて、腹が立つだけだし、むなしさすら覚えます。
「あなたが逆の立場だったら、耐えられるのかよ」とそんな気持ちでした。
しかし、いくらエネルギーを注いだって解決するどころか、自分を追いつめてしまうのが神経症の怖いところですよね。
必死でがんばってきたのに報われない。それじゃぁ、心がますます落ち込むのは当たり前です。
でも、惰性で何もしないでいるのも、時間が解決する問題ではないので、ただの時間の浪費です。
がんばることは当たり前ですが、何にがんばるかが重要になってきます。
「必死」にも、悩みや症状から逃避するためだけの「必死」、あるいは耐えるためだけの「必死」は、何の生産的な結果を生み出してくれません。
ぼろぼろになるだけです。
そして、落ち込みが増して鬱病になるか、自暴自棄になるか、自殺の道を考えるのか、それしかありません。
「必死」でも、何の意味がない必死さを誰もがしてしまいます。
そして、誰もほめてくれないし、「もっとがんばれ」と言われるだけ。
鬱病に「がんばれ」が禁句なのも、そういう意味が大きいと思います。
僕は鬱病の人の気持ちは痛いほどよくわかります。
どうせ「必死」になるなら、僕は克服するために「必死」になるしかないと、ある時期(岩波先生にお世話になっていた時期)に気がつきました。
先生の誰もいってくれない僕へのアドバイスは、当時ちょっと負担すら覚えましたが、神経症克服には絶対必要なことを多く含んでいました。
今の僕から見て、ほんとうにありがたい言葉でした。
それは何かというと、多くのブログを書いている人が必要だと述べているように、「覚悟」です。
同じ「必死」でも「覚悟」を含んだ必死さは、克服するために、そして自分のメンタルが強くなり、割り切りが強くために、必要不可欠な要素でした。
みんな必死に生きてきたけれど、多くが逃避や我慢のためだけの必死さで、悪循環にはまっていたと思います。
そして「なぜ駄目なんだ」という悪い感情だけが頭を支配して、何をするにしても落ち着かなくなります。
まずはつらくても、『悩みがあってもなくても、リスクを選ぶ人生』を自分なりに(徐々に)やっていくことで、僕は自分の悩みを乗り越えることができました。
『 』の中の言葉は、覚悟が必要になります。
でも、同じ必死になるなら、そちらの必死さの方が、絶対に克服できる道を歩めると体験から断言できます。
ただし、悩みの重さや、その人の資質もありますので、最初から完璧に『覚悟』を決めることをやろうとすると、また焦りだけに支配されると思います。
症状が重くて、何をするにもやる気がでない人は、徐々にならしてから、チャレンジしていきましょう。
自分の周りに、いくらでもチャレンジすることがあると思います。
何もすることはない、見つからないという人は、やらない理由を見つけているか、見返りがあることだったらやってもいいよ、という気持ちがあると思います。
それは僕がそうでしたから。
どうせ必死になるなら、中期的に見て(長期にはならないと思います)、悩みが解決するための努力をしたほうが、本当に楽に生きられるし、気分も感情も高揚しましたので、エネルギーをどんな部分に振り分けるか、ということだけだと思います。
今までも我慢や逃避のためのエネルギーを考えてみると、とんでもないくらい莫大なものがあると思います。
そうです、普通の人の何倍も、本当はがんばれるってことです。
だから、生産的な方向にもがんばれるっていう保証でもあります!
かといって、それがいやでみんな努力したり、歯を食いしばって耐えたり、前精神力を総動員して、神経症克服を成し遂げようとがんばっています。
でも、僕もそうだったですが、なぜ努力の分だけ結果が出ないのでしょうか?
そして、努力の分だけ、焦りを呼び込み、余計ヘトヘトになって、何のために生きているのかわからなくなる悲劇は、おそらくみんな経験していると思います。
必死でやれば、心も問題は解決する、と普通の人は簡単に言うと思います(親とか友人とか)
根性があれば何でも可能だと言われます。
しかし、心の問題の袋小路に入ったことがない人が、いくらそうアドバイスしても、「あなたの今までの人生で注入した精神的なエネルギーなんて、俺に比べたら、ほんとちっぽけなものですよ」と言いたくなりました。
それぐらい、僕を含めて、神経症の人は、どれだけエネルギーを解決するために注ぎ込んできたでしょうか?
それに比べたら、普通の人のアドバイスなんて、腹が立つだけだし、むなしさすら覚えます。
「あなたが逆の立場だったら、耐えられるのかよ」とそんな気持ちでした。
しかし、いくらエネルギーを注いだって解決するどころか、自分を追いつめてしまうのが神経症の怖いところですよね。
必死でがんばってきたのに報われない。それじゃぁ、心がますます落ち込むのは当たり前です。
でも、惰性で何もしないでいるのも、時間が解決する問題ではないので、ただの時間の浪費です。
がんばることは当たり前ですが、何にがんばるかが重要になってきます。
「必死」にも、悩みや症状から逃避するためだけの「必死」、あるいは耐えるためだけの「必死」は、何の生産的な結果を生み出してくれません。
ぼろぼろになるだけです。
そして、落ち込みが増して鬱病になるか、自暴自棄になるか、自殺の道を考えるのか、それしかありません。
「必死」でも、何の意味がない必死さを誰もがしてしまいます。
そして、誰もほめてくれないし、「もっとがんばれ」と言われるだけ。
鬱病に「がんばれ」が禁句なのも、そういう意味が大きいと思います。
僕は鬱病の人の気持ちは痛いほどよくわかります。
どうせ「必死」になるなら、僕は克服するために「必死」になるしかないと、ある時期(岩波先生にお世話になっていた時期)に気がつきました。
先生の誰もいってくれない僕へのアドバイスは、当時ちょっと負担すら覚えましたが、神経症克服には絶対必要なことを多く含んでいました。
今の僕から見て、ほんとうにありがたい言葉でした。
それは何かというと、多くのブログを書いている人が必要だと述べているように、「覚悟」です。
同じ「必死」でも「覚悟」を含んだ必死さは、克服するために、そして自分のメンタルが強くなり、割り切りが強くために、必要不可欠な要素でした。
みんな必死に生きてきたけれど、多くが逃避や我慢のためだけの必死さで、悪循環にはまっていたと思います。
そして「なぜ駄目なんだ」という悪い感情だけが頭を支配して、何をするにしても落ち着かなくなります。
まずはつらくても、『悩みがあってもなくても、リスクを選ぶ人生』を自分なりに(徐々に)やっていくことで、僕は自分の悩みを乗り越えることができました。
『 』の中の言葉は、覚悟が必要になります。
でも、同じ必死になるなら、そちらの必死さの方が、絶対に克服できる道を歩めると体験から断言できます。
ただし、悩みの重さや、その人の資質もありますので、最初から完璧に『覚悟』を決めることをやろうとすると、また焦りだけに支配されると思います。
症状が重くて、何をするにもやる気がでない人は、徐々にならしてから、チャレンジしていきましょう。
自分の周りに、いくらでもチャレンジすることがあると思います。
何もすることはない、見つからないという人は、やらない理由を見つけているか、見返りがあることだったらやってもいいよ、という気持ちがあると思います。
それは僕がそうでしたから。
どうせ必死になるなら、中期的に見て(長期にはならないと思います)、悩みが解決するための努力をしたほうが、本当に楽に生きられるし、気分も感情も高揚しましたので、エネルギーをどんな部分に振り分けるか、ということだけだと思います。
今までも我慢や逃避のためのエネルギーを考えてみると、とんでもないくらい莫大なものがあると思います。
そうです、普通の人の何倍も、本当はがんばれるってことです。
だから、生産的な方向にもがんばれるっていう保証でもあります!
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